粗い結晶が織りなす複雑な模様が、光の加減で青みを帯びて見えることから、この名がついたという。この石が切り出されるのは、インド南部テランガーナ州、ワランガル県カジペート周辺である。
ちなみに、この石は鉱物学的には厳密には花崗岩ではなく、菫青石(コーディエライト)を主成分とする片麻岩に分類されるとする専門家もいる。石材業界で「グラナイト」と呼ばれる石の多くがそうであるように、商業上の呼び名と、学術上の分類は必ずしも一致しない。

王朝の都だった土地
この石が採れるワランガルという街は、13世紀、南インドに勢力を広げたカーカティヤ朝の都だった。デカン高原の東側、現在のテランガーナ州とアーンドラプラデーシュ州にまたがる広大な領域を治めたこの王朝は、灌漑用のため池を各地に築き、農業と交易を基盤に栄えた。その歴史の中心にいるのが、一人の女性である。
息子として即位した娘
カーカティヤ朝の王ガナパティ・デーヴァには、跡を継ぐべき男子がいなかった。娘のルドランバは幼い頃から聡明で、父の傍らで政務を学んでいたという。
1259年、王は決断を下す。娘を正式に「息子」とする特別な儀式(プトリカー儀礼)を執り行い、彼女に「ルドラデーヴァ」という男性名を与えて後継者に指名したのである。この儀式の場には、王の重臣であり彼女の師でもあったシヴァデーヴァヤも立ち会っていたと伝えられる。
以後、彼女の名で発行された公文書や貨幣の多くには、男性の王としての名が記された。女性が単独で王位を継ぐことがほとんど前例のなかった時代に、名前ごと性別を書き換えるという、異例の手段が取られたことになる。
王座に立った女人への反発
女性が統治するという事実そのものへの反発は根強く、即位後まもなく、複数の家臣が反乱を起こしている。中でも縁戚にあたる二人の従兄弟が兵を挙げた反乱は、彼女の治世の初期を大きく揺るがした。
ルドラマ・デーヴィーはこれを鎮圧すると、貴族の血筋にこだわらず、能力ある者を軍や行政の要職に登用するという、当時としては異例の統治方針を打ち出した。この人事政策が、彼女の統治基盤を支える新しい忠誠の輪を作り上げていく。
対外的にも試練は続いた。隣国ヤーダヴァ朝の王マハーデーヴァがワランガルへの侵攻を企てると、彼女は自ら軍を率いてこれを撃退し、ゴーダーヴァリー川を越えて反撃に転じ、最終的に有利な講和条約を結ばせている。
城壁を継いだ女王
内憂外患を退けながら、ルドラマ・デーヴィーは父の代から着手されていたワランガル城塞の拡張も引き継いだ。内側の城壁に加えて外側にもう一重の城壁を築き、その周囲に深い濠を巡らせることで、当時としては屈指の堅牢さを誇る城塞都市を完成させている。
この地で切り出される花崗岩は、彼女の治世下では、装飾品としてではなく、まず何よりも国を守る城壁の石として、一つ一つ積み上げられていたことになる。

旅人が記した女王
彼女の治世の評判は、遠くヴェネツィアの旅行者の記録にまで残っている。1289年前後、この地を訪れたマルコ・ポーロは、この王国がすでに40年近くも一人の統治者のもとにあり、その統治者が正義と公正を重んじ、先代の王以上に民に慕われていたと書き記した。
世界各地の王侯を見てきたはずのこの旅行者にとっても、南インドの一王国を一人で治めきる女性の存在は、よほど印象的だったのだろう。もっとも当のポーロは、彼女を先王の未亡人だと誤解していたようで、一人の女性が正式な後継者として単独で王座に就いているとは、想像もつかなかったらしい。
彼女の存在は、20世紀後半になってアメリカの歴史学者シンシア・タルボットらによる本格的な研究が進むまで、インド国内の歴史教科書でもほとんど顧みられてこなかったという。
ルドラマ・デーヴィーの最期は、1289年、あるいは1295年頃と伝えられる。有力な家臣アンバデーヴァの反乱を鎮めるための戦いの最中に、彼女は命を落としたとされている。詳細な経緯は今も定かではないが、40年近くにわたり男の名を戴いて国を治め続けた女王が、最後は戦場でその生涯を終えたという事実だけが、はっきりと歴史に刻まれている。
サファイアブラウンという名前は、宝石を思わせる響きで商業的に選ばれたものにすぎない。だが、この石が切り出される土地に本当にあった歴史は、宝飾よりもよほど劇的である。
王の名を借りて即位し、家臣の反乱を鎮め、隣国の侵攻を退け、戦って国を守り、遠い異国の旅行者にまでその統治を記録された女王、そして最後は、自らが完成させた城壁の外で、戦の最中に生涯を終えた女王。
その足元の岩盤が、今日も静かに切り出され、青みがかった茶色の輝きをまとって、世界中の建材として運ばれている。


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