ほとんど黒に近いほど深みのある色合いから、「マロン・アンティーク」とも呼ばれるこの石は、アフリカ南西部アンゴラ共和国、南部のウイラ州で切り出されている。州都ルバンゴを中心に広がる高原地帯、標高1700メートルを超えるこの土地が、この石の産地である。
斜長石を主成分とする粗粒の深成岩で、ヨーロッパの規格上は「アノーソサイト」に分類されることもあるこの石は、切り出された後、ナミベやルアンダの港を経由して世界各地へと輸出されている。


高原の街の、もうひとつの名前
ルバンゴという街は、実はつい半世紀前まで、まったく別の名前を名乗っていた。この一帯は1850年、サ・ダ・バンデイラ侯爵自身の手によってウイラ郡として設置され、その後何度か入植が試みられている。
1881年には南アフリカから移動してきたボーア人の一団による入植も試みられたが、これは長続きしなかった。本格的な街づくりが始まるのは1885年のことで、マデイラ諸島やポルト・サント島から移り住んだポルトガル人入植者たちがこの高原に築いた植民地の町は、「サ・ダ・バンデイラ」と名付けられた。
1889年に町に、1923年には鉄道が高原まで開通したのを機に市に昇格し、以後1975年のアンゴラ独立まで、この街はずっとその名で呼ばれ続けていた。

奴隷貿易を禁じた男
この街の名の由来となったサ・ダ・バンデイラとは、19世紀ポルトガルの政治家、ベルナルド・デ・サー・ノゲイラ・デ・フィゲイレードのことである。
1795年生まれの彼は、若い頃から自由主義派として王政をめぐる内戦(自由主義戦争)に身を投じ、ポルト包囲戦では右腕を失うという重傷も負っている。片腕を失ってなお生涯政界にとどまり続けたこの人物は、5度にわたってポルトガル首相を務め、イギリスからの圧力もあって1836年、ポルトガル領における奴隷の対外輸出を禁じる布告を発した。
1854年には、虐待を受けた奴隷が保護と解放を申し立てられる制度(奴隷・解放民保護局)も設けている。ポルトガル植民地史のなかでは、彼は奴隷制廃止に向けて動いた政治家として記憶されている人物なのである。
名前と現実の間
だが、その理想と、植民地経営の現実との間には、大きな隔たりがあったとされる。1836年の布告のあとも、密輸業者たちは取り締まりの手薄な南部の港(ノヴォ・レドンド、ロビト、モサメデスなど)へと拠点を移し、奴隷の積み出しは何十年にもわたって続いた。
実際にポルトガル領における奴隷制そのものの完全な廃止は、さらに数十年先のことである。何より、アンゴラという土地そのものが、17世紀から19世紀にかけて、大西洋を渡ってブラジルへ送られた奴隷の、アフリカ最大級の供給地であり続けた歴史を持つ。首都ルアンダには今も、この地を長く治めたンジンガ女王の像が誇らしげに立つ一方、遠く離れたリスボンの広場には、サ・ダ・バンデイラ侯爵の像の足元に、かつて奴隷としてアンゴラからポルトガルへ渡った一人の女性を象った「自由」の像が添えられている。
奴隷貿易の廃止を掲げた政治家の名が、その奴隷貿易によってこそ苦しめられてきた土地の、真新しい植民地都市に冠せられる。この命名には、理念と現実のあいだの、ある種のねじれが刻まれていたことになる。

名前を返した街
1975年、アンゴラはポルトガルからの独立を果たす。独立後の新政権は、各地に残る植民地時代の地名を、次々と旧来の呼び名や現地の言葉に置き換えていった。中央高原の都市「ノヴァ・リスボア」が「ウアンボ」に改められたのと同じように、サ・ダ・バンデイラもまた、この土地に古くからあった名前「ルバンゴ」を取り戻すことになる。
植民地時代の政治家の名前を掲げた高原の街は、独立からわずか数年のうちに、その名を静かに手放したのだった。皮肉にも、奴隷貿易の廃止を志した政治家の名前は、奴隷貿易そのものと同じく、この土地からいずれ消え去る運命にあったことになる。
ブラウンアンティークという御影石は、今日も変わらずこの高原の下から切り出され、世界各地の建材市場へと運ばれていく。輸出用のカタログには単に「アンゴラ産」とだけ記され、その土地がかつて名乗っていた植民地時代の名前も、そこに刻まれた奴隷貿易をめぐる複雑な歴史も、そこには一切記されていない。街の名前がサ・ダ・バンデイラからルバンゴへと変わった年も、多くの輸出資料には残されていない。
石そのものは、その土地がサ・ダ・バンデイラと呼ばれていた時代も、ルバンゴと呼ばれるようになった今も、同じ場所で、同じ結晶を抱えたまま眠り続けてきた。人間が土地につけた名前がどれほど移り変わろうと、その足元の岩盤だけは、政治とも理念とも無関係に、ただ静かにそこにあり続けている。


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