帝国ホテルグループとして東京、上高地、大阪に次ぐ4軒目、1996年の大阪開業以来、実に30年ぶりの新規開業である。
舞台となったのは、祇園甲部歌舞練場の敷地内にある国の登録有形文化財「弥栄会館」。1936年(昭和11年)に竣工した建物の記憶を受け継ぎながら、全55室のホテルへと生まれ変わった。
この建物の内装デザインを手がけたのは、榊田倫之氏と杉本博司氏が設立した「新素材研究所」である。
古くから日本で使われながら、いつしか姿を消しつつある素材や工法にもう一度光を当て、新しい空間の中で生かす。その設計思想のもと、帝国ホテル京都には、日本各地から集められた石が随所に使われている。
しかし、それらは単に「国産だから」という理由で集められた石ではない。 一つ一つの石が、それぞれ異なる時間の記憶を持っていた。
弥栄会館という舞台
弥栄会館が竣工した1936年には、もう一つ、日本の石材史を語るうえで欠かせない建物が完成している。
国会議事堂である。
着工から17年の歳月をかけて完成した国会議事堂には、外装の花崗岩から内装の大理石まで、日本各地から集められた膨大な量の国産石材が使われた。そのため、建築・石材関係者から「日本の石材博物館」のように語られることもある。
榊田氏も、弥栄会館と国会議事堂が同じ1936年に完成したことに注目している。当時の建築には、日本国内の素材と技術によって大きな建物を造ろうとした時代の力が宿っている。
そして帝国ホテル京都の設計を進める中で、榊田氏たちは弥栄会館の内部に残されていた一つの石と出会う。
それが、田皆石だった。
この発見をきっかけに、日本の在来素材を新しいホテルの中に生かすという考えが広がっていく。
こうして帝国ホテル京都には、田皆石、大谷石、北木石という、まったく異なる歴史を持った石が集まることになった。

大谷石、ライト館の記憶
一つ目は、栃木県宇都宮市大谷町で採れる大谷石である。
1923年、フランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル二代目本館、通称「ライト館」には、大谷石が内外装にふんだんに使われた。
同じ年に起きた関東大震災を生き延びたライト館は、その後、帝国ホテルを象徴する建築となったが、1968年に解体された。現在、その一部は愛知県の博物館明治村に移築されている。
帝国ホテル京都の設計を担当した榊田氏は、2020年から「大谷石大使」も務めている。
新しい帝国ホテル京都にも、当然のように大谷石が戻ってきた。
オールドインペリアルバーなどには、大正末から昭和初期という、ライト館とほぼ同じ時代に切り出された古い大谷石が使われている。
新しく採った石ではない。
ライト館が建っていた時代と同じ時間を生きてきた石を探し出し、新しい帝国ホテルへ持ち込んだのである。
大谷石は、軽石凝灰岩と呼ばれる比較的柔らかな石で、加工しやすく、表面には「ミソ」と呼ばれる独特の斑点が現れる。一枚として同じ表情のものはない。
オールドインペリアルバーという名前自体が、失われたライト館へのオマージュでもある。
そこに同時代の大谷石を置く。
それはライト館の姿を再現することとは少し違う。
かつての帝国ホテルが過ごした「時間」を、石によって新しいホテルへ引き継ぐ試みなのである。


田皆石、弥栄会館に残されていた南の石
二つ目は、鹿児島県沖永良部島産の「田皆石」である。
今回の三つの石の中でも、この田皆石との出会いが、帝国ホテル京都に日本の石を取り入れていく一つの出発点になった。
v 改修前の弥栄会館を調査していた榊田氏は、かつての貴賓室で一つの石を発見する。
その石が、沖永良部島で採られていた田皆石だった。
しかも、そのそばには南方の植物であるバショウ(芭蕉)をかたどったレリーフが残されていた。
なぜ1936年の京都の貴賓室に、遠く離れた沖永良部島の石と、南方の植物が並んでいたのだろう。
榊田氏は、柳宗悦らによって沖縄の民藝が本土に紹介されていた当時の文化的背景や、寒さの厳しい京都という土地柄から、そこには南方へのある種の憧れが込められていたのではないかと考えている。
もちろん、これは本人も述べているように推測の域を出ない。
しかし、その謎めいた組み合わせが、新しいホテルの素材を考える大きな手掛かりになった。
沖永良部島は、奄美群島の南西部に位置する隆起珊瑚礁の島である。田皆石は、その島で採られていた石灰岩の一種だ。
ところが、弥栄会館で発見した田皆石を、新しいホテルでもう一度使おうとしても、同じ石を新たに切り出すことはできなかった。
採石場は1970年代に閉山し、田皆石はすでに採れなくなっていたのである。
それでも探していくと、矢橋大理石が田皆石をデッドストックとして保有していることがわかった。
90年前の貴賓室で偶然見つけた石。
その正体を調べ、遠く沖永良部島まで由来を辿り、すでに閉じられた石山からかつて切り出された石を探し出す。
こうして再び集められた田皆石は、帝国ホテル京都の1階の主要部分をはじめ、各フロアのエレベーターホールなどにも姿を現している。
一か所だけに「保存」されたのではない。
宿泊客がホテルの中を移動するたび、その石と出会う。
1936年の弥栄会館に置かれていた南の島の石が、2026年の帝国ホテル京都では、建物の中を縦につなぐように配置されているのである。
田皆石は、帝国ホテル京都を飾るために選ばれた単なる国産石材ではない。
弥栄会館から帝国ホテル京都へ。
1936年から2026年へ。
九十年という時間をつなぐ石なのである。

北木石、石切唄が残る島の石
三つ目は、岡山県笠岡諸島の北木石である。
帝国ホテル京都の地下プール。その水面に沿って立つ巨大な石壁には、荒々しい割肌を残した大きな花崗岩が並んでいる。帝国ホテルの公式資料では、これを「岡山県白石島産の北木石」と説明している。
ここには、石材を知る者には少し気になる表現がある。
北木石とは本来、笠岡諸島の北木島から産出する花崗岩の名として知られてきた石である。白石島は北木島の隣に位置する島であり、同じ笠岡諸島に属する。石材の流通上、周辺で採れる同系統の石まで含めて北木石の名で扱われたのか、それとも別の経緯があるのか。今回確認できた資料だけでは、そこまではわからなかった。
ただ、この石の故郷である笠岡の島々、とりわけ北木島が、日本有数の石切りの島だったことは間違いない。
北木島では最盛期の1957年、127もの丁場が稼働していた。石工たちは真夏の炎天下でも、冬の凍てつく風の中でも、一日中石を切った。その過酷な仕事の中で歌われたのが、「北木島石切唄」である。
唄は単なる娯楽ではなかった。石工たちは互いに歌い合って仕事の辛さを紛らわせ、ノミを打つときには、その調子に合わせて作業を進めたという。
その歌詞には、北木島の石工たちの誇りがそのまま残っている。
「浪花名物 大阪城も 北木で運んだ石でもつ」
「嫁に行くなら 石屋の嫁に 右も左も金ばかり」
大坂城から近代建築へ。北木島の石工たちは、自分たちの島から切り出された石が日本各地の建築を支えていることを、仕事唄の中にまで歌い込んだのである。現在、北木島で現役の丁場は一社だけになったが、石切唄は保存会によって受け継がれている。
帝国ホテル京都の地下で、水面を照らす光を受けながら立つ巨大な石壁。その荒々しい表面を見ていると、ホテルの装飾というより、かつて島の山で石を切っていた石工たちの仕事そのものが、京都へ運ばれてきたようにも見える。


もう一つの石材博物館
こうして見ていくと、帝国ホテル京都は、国会議事堂とはまったく異なる方法で生まれた、もう一つの「日本の石材博物館」のようにも見えてくる。
国会議事堂は、日本各地から石を新たに集め、一つの巨大な建築を造り上げた。
帝国ホテル京都は違う。
すでにその場所にあった石。
かつて別の帝国ホテルを象徴した石。
そして、古い建物の中で偶然発見され、産地を辿って再び探し出された石。
三つの石が、三つの異なる時間から集まってきた。
大谷石は、ライト館の記憶を。
田皆石は、弥栄会館と南方への憧れの記憶を。
北木石は、日本の石切りと弥栄会館そのものの記憶を。
それぞれの石が、それぞれ違う時間を背負っている。
榊田氏は、帝国ホテル京都について「時代を越える装置」と表現している。
弥栄会館には、すでに90年という時間が積み重なっている。帝国ホテル京都はゼロから始まった新しい建物ではなく、その90年の上に、新しい時間を重ねていく建物なのだという。
祇園の一角に立つこのホテルは、日本各地の石が、それぞれ異なる時代からやってきて出会った、静かな合流地点でもある。
90年前、弥栄会館の壁を積んだ職人も、貴賓室に田皆石を選んだ誰かも、自分たちが選んだ石が九十年後にもう一度見つけ出され、新しいホテルの物語をつなぐ存在になるとは思っていなかっただろう。
建物は変わる。
人も変わる。
それでも石は残る。
帝国ホテル京都を歩いていると、その当たり前のようで不思議な時間の長さを、三つの石が静かに語りかけてくるのである。
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