【大理石の物語 4】エルギン・マーブル ~200年越しの石の奪還戦争~

大英博物館の展示室の中で、最も多くの人が足を止める場所がある。「パルテノン・ギャラリー」だ。

そこに並ぶ大理石の彫刻群 エルギン・マーブル は、本来ならアテネのアクロポリスに刻まれているはずだった。

なぜ、ギリシャの石がロンドンにあるのか。そして、なぜ200年経っても帰ってこないのか。


「許可書」は本当に有効だったのか


エルギンはオスマン帝国のスルタン・セリム3世から調査の許可書を取り付けた。当時イギリスはナポレオンのエジプト遠征を撃退しており、オスマン帝国と良好な関係にあった。

その外交的優位が、許可書の取得を後押しした。

しかし、その許可書の内容が問題だった。当初は写生や型取りが目的だったが、文面には「石板や彫刻を持ち去ること」まで認める文言が含まれていたとされる。

エルギン自身も、最初から大規模に持ち出すつもりはなかったともいわれる。だが「このままでは彫刻が消えてしまう」という思いが彼を変えた。1801年から長い年月をかけて、彫刻群は次々とロンドンへ運ばれていった。

神殿は、すでに廃墟だった


1800年、イギリスの外交官トマス・ブルース(第7代エルギン伯爵)は、オスマン帝国駐在の特命全権大使としてイスタンブールに赴任した。その際、彼はアテネのパルテノン神殿の調査を計画する。

ただし当時のギリシャはオスマン帝国の支配下にあり、ギリシャ人が「自国の神殿」に自由にアクセスすることすら難しい時代だった。

エルギンが見た神殿は、すでに無残な姿だった。17世紀にはオスマン軍の火薬庫として使われていた神殿が、1687年にヴェネツィア軍の砲撃で大爆発。屋根が吹き飛び、装飾彫刻の多くが失われた。

さらに18世紀には、ヨーロッパ各国の旅行者たちが大理石のかけらを「記念品」として持ち出していた。

波乱の輸送――沈没、幽閉、そして破産


彫刻をイギリスに届けるまでの道のりは、まるで呪われているかのようだった。

彫刻を積んだ船のひとつは嵐で沈没し、引き上げるのに数年を要した。マルタ島で長く留め置かれた荷物もあった。

エルギン本人も、帰途のフランスでナポレオンに拘束された。さらに健康を害し、妻子にも去られ、膨大な輸送費用によって財政的に追い詰められていく。

1816年、エルギンはコレクションをイギリス政府に売却。彫刻群は大英博物館に収蔵されることになった。

しかし、その買い取り価格は、彼が費やした金額の半分ほどだったともいわれる。

エルギンは英雄か、略奪者か。当時のイギリスでも賛否は分かれていた。

さらなる事件――白く磨かれた石


大英博物館に収蔵されてからも、彫刻の受難は続いた。

1930年代、館員たちは彫刻の「洗浄」を行った。表面を強く研磨し、「もっと白く」見せようとしたのである。

しかし、実際の古代ギリシャ彫刻は、かつて極彩色に彩られていた。白い大理石の美しさは、後世の人々が作り上げたイメージでもあった。

研磨によって、古代の色彩の痕跡は永久に失われた。美しく見せるための行為が、かえって歴史の証拠を削り落としてしまったのである。

200年越しの返還交渉、今も続く


1980年代初頭、ギリシャは正式に返還要求を始めた。その先頭に立ったのは、女優でもあった文化相メリナ・メルクーリだ。

彼女の訴えは国際社会に広く知られることになり、エルギン・マーブルは単なる美術品ではなく、「文化財は誰のものか」という大きな問いを象徴する存在となった。

一方、大英博物館は「合法的に取得した」という立場を崩していない。

アテネのアクロポリス博物館では、本物の彫刻と精巧なレプリカが並んで展示されている。そこには、いつかオリジナルが帰ってくる日を待つような空白がある。

石が語る問い


エルギン・マーブルをめぐる問いは、単純ではない。

「保護のために持ち出した」という主張にも、一定の根拠はある。神殿が火薬庫として使われていたのは事実であり、放置されていれば彫刻の多くは失われていたかもしれない。

だが、その後に彫刻を研磨して色を消したこと、そして200年経った今もなお返還されていないことに、すべての人が納得しているわけではない。

大理石は語らない。

しかし、石に刻まれた女神や馬たちは今日も、アテネとロンドンに引き裂かれたまま、それぞれの展示室に佇んでいる。

失われた場所に戻れない石。
それこそが、エルギン・マーブルの最も深い物語なのかもしれない。


ひとつの石に、ひとつの物語がある。

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