【大理石の物語 83】十和田石と、湯けむりの中の青、温泉・旅館文化と「滑らない」理由

温泉旅館のお風呂で、足元が怖いと感じたことはあるか。

石や陶器タイルの浴室床は、濡れると滑りやすい。特に高齢者や子どもにとって、温泉浴場の濡れた床での転倒は深刻な事故につながる。温泉施設の浴室設計において「滑らない床材」は最優先の課題のひとつだ。

その課題に対して、十和田石は一つの答えを持っている。

なぜ十和田石は滑らないのか


十和田石が水に濡れても滑りにくい理由は、その多孔質構造にある。

表面に無数の小さな穴がある十和田石は、水が接触すると穴の中に水を吸い込む。
重要なのは、水で濡れても表面に「水の膜」ができないことだ。
通常の石材やタイルでは、表面に水の薄い膜が張られ、その膜の上に足が乗ると滑る。
しかし十和田石は水を穴の中に吸い込んでしまうため、表面に水膜ができにくい。

水があるのに、滑らない。

さらに多孔質の石なのでひんやり感も他の天然石に比べてあまり感じない。
大理石やタイルの浴室床に裸足で立つと冷たくて驚くことがあるが、
十和田石は空気を多く含む多孔質構造が断熱材の役割を果たし、冷たさが伝わりにくい。
素足で立っても冷たくない。これも浴室材料としての大きな利点だ。

滑らない、冷たくない、温かさが持続する。この三拍子が、十和田石を温泉・浴室の素材として理想的な石にした。

日本の旅館文化と石風呂の歴史


日本の温泉旅館文化において、浴室の素材は「おもてなし」の一部だ。

江戸時代の温泉宿は板張りや石畳の浴室が多かった。
明治・大正になると、タイル張りの浴室が「近代的」「衛生的」として普及した。
しかし昭和の高度成長期から、旅館の差別化の手段として「天然素材の浴室」が注目されるようになった。

檜風呂、岩風呂、そして石風呂
天然素材への回帰が旅館の「格」の象徴になった。
その文脈の中で、十和田石は理想的な素材として登場した。
美しい青緑色、滑りにくさ、保温性、抗菌性、機能性と美しさを兼ね備えた石が、高級旅館の浴室に選ばれた。

石の中では秀でて柔らかく、水に濡れても滑りにくいことから、古くから温泉場・浴場で活用されてきた。
その伝統が、現代の高級旅館に受け継がれている。

湯が入ると「エメラルドグリーン」に変わる


十和田石の浴槽に湯を張る瞬間がある。

木製の吐水口から流れ落ちる「湯」の音。
お湯が入ると「エメラルドグリーン」に変色する十和田石。
浴槽の周りの天然木から香る木の香り。
入浴しながら、聴覚・視覚・嗅覚を心地よく刺激してくれる。

乾いた状態の青緑色が、お湯が満たされるにつれてエメラルドグリーンに変わっていく。
この視覚的な変化が、入浴体験そのものを特別なものにする。
「湯を張る」という日常的な行為が、石の色の変化によって小さな儀式になる。

高級旅館が十和田石を選ぶ理由は、機能性だけではない。
この「色が変わる体験」が、旅館の浴室に物語を与えるからだ。

十和田石の弱点、乾湿の繰り返し


しかし十和田石には弱点もある。正直に書いておく必要がある。

十和田石は浴槽底面のような常に濡れている環境であればボロボロ崩れることはまず無いのだが、浴槽の縁の部分は、濡れたり乾いたりを常に繰り返す箇所のため、湿度変化による膨張と収縮が頻繁に起き、風化しやすくなる。

水を多く吸収しやすく、そしてすぐに乾く、この「速乾速湿」という優れた特性が、風化を促進させるという皮肉な側面を持つ。

さらに十和田石は酸に弱いので、酸性の温泉だと風化がますます進みやすくなる。

使い続けると石が劣化し、表面が崩れてくることがある。
高級旅館では数年から十数年で石の張り替えが必要になるケースもある。
「美しい素材を美しく保つ」ためのメンテナンスコストが、十和田石を採用する際の課題だ。

一部の温泉旅館では、常に濡れている浴槽の内側は十和田石を使いながら、乾湿が繰り返される縁の部分だけは御影石や木材で補う工夫をしている。
石の性質を知った上で、賢く使う。

旅館から住宅へ「自宅に温泉旅館の浴室を」


かつて十和田石は温泉旅館や公共浴場の素材だった。しかし近年、住宅のバスルームにも広がっている。

きっかけは「旅館体験の自宅再現」という需要だ。

温泉旅館で十和田石の浴室を体験した人が、「自宅にも同じような浴室を作りたい」と希望するケースが増えた。

造作浴室(ユニットバスではなく、タイルや石を職人が施工するオーダーメイドの浴室)の素材としても、十和田石は人気を集めている。

温泉旅館で生まれた十和田石の文化が、住宅の日常へと広がっている。

青い石が作る、湯けむりの文化


前話(第82話)で書いたように、十和田石の採掘量は年間わずか3000トンだ。
世界でただ一か所の産地から、この小さな量の石が日本中の温泉旅館と浴室に届いている。

ビアンコカララ(年間140〜150万トン)や大谷石(最盛期に年間数百万トン)と比べると、十和田石の規模は比較にならないほど小さい。
しかしだからこそ、十和田石が使われている浴室には「選ばれた場所」という特別な意味がある。

湯が満ちると青く変わる石。
水に濡れても滑らない石。
温かさを蓄える石。
弱アルカリ性で肌に優しい石。
1000万年前の海底火山が作り、秋田の山から掘り出され、日本の湯の文化の中に溶け込んだ石。

十和田石の浴室に浸かるとき、その青い壁に囲まれて、1000万年前の海底の静けさが少しだけ蘇る気がする。

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