【大理石の物語 76】大谷石と、地下に眠る巨大神殿

階段を下りると、別の世界が現れる。

栃木県宇都宮市大谷町。
地上は普通の田舎町だ。

しかし大谷資料館の入口から階段を降りていくと、気温が急に下がる。
夏でも8度前後、真冬の外気のような冷たさが全身を包む。
そして目の前に、突然、巨大な空間が広がる。

広さ2万平方メートル(140メートル×150メートル)。深さ平均30メートル、最深部60メートル。
野球場がすっぽり入ってしまう大きさの空間が、地下に口を開けている。

天井は高く、壁面にはツルハシで削った無数の線が刻まれている。
薄暗い照明の中、その空間は「古代ローマの遺跡」とも「地下神殿」とも表現される。

写真では伝わらない、実際に立って初めてわかる圧倒的なスケールだ。

この空間は自然にできたものではない。人間が70年かけて、石を掘り続けて作った空洞だ。

1919年から1986年、70年の手仕事


大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて、大谷石を掘り出してできた巨大な地下空間だ。

最初の数十年は手堀りだった。
ツルハシとのみだけを使い、職人が一枚一枚石を切り出した。
石の壁面に今も残る無数の細い線、それはすべて、人間の手が道具を振るった跡だ。

一人の職人が1日に切り出せる量はわずかだった。
それを何十人、何百人が何十年も続けた結果が、この巨大空間だ。

戦後になると機械化が進み、チェーンソー式の切断機が導入された。
効率は上がったが、機械が入れる範囲には限界があった。
人の手と機械の手が交互に削り続け、空間はじわじわと広がっていった。

1986年、
採掘は終了した。
地下空間の拡大がこれ以上の安全を保証できなくなったからだ。

70年間で採掘された石の量は推定数百万トン、それだけの石が地上の建物になり、蔵になり、帝国ホテルの壁になり、世界へ旅立っていった後、この空洞だけが残った。

戦争中、この地下に「疾風」があった


しかしこの空間の歴史は、観光と芸術だけではない。

1944年(昭和19年)、
大谷石地下採掘場の広大な空間は陸軍の地下秘密倉庫に利用された。
そして戦時中は中島飛行機の「疾風」を製造する地下工場としても活用された。

疾風、
四式戦闘機Ki-84。
第二次世界大戦末期に日本陸軍が投入した最高性能の戦闘機で、連合軍のパイロットからも「最も恐ろしい日本の戦闘機」と恐れられた。
その疾風が、宇都宮の地下30メートルの石の洞窟の中で組み立てられていた。

地下工場を選んだのは、アメリカ軍の爆撃を避けるためだ。
B-29の爆撃機が関東の工場地帯を次々と焼いていく中、地下の大谷石の壁は天然の防空壕として機能した。

大谷石の柔らかく多孔質な構造が、爆撃の衝撃を吸収した。
前話(第75話)で帝国ホテルの地震対策に貢献したのと同じ性質が、今度は戦争の文脈で活用された。

疾風はここで翼を広げ、空へ旅立った。
地下の石の洞窟から、戦争の空へ。
四式戦闘機 Ki-84

戦後は「古々米」の倉庫になった


戦争が終わり、地下工場は用途を失った。

1969年(昭和44年)、
大谷石地下採掘場は年平均気温が7度前後であるため、政府米(古々米)の保管庫として使われるようになった。

疾風を作った洞窟が、今度は米を保存する冷蔵庫になった。
年間を通じて気温が一定で低く、湿度も安定している。
食品の保存に理想的な環境だ。

戦闘機から米へ。
この用途の変化が、この空間の「何にでも使える汎用性」を物語っている。

コンサートホール、映画撮影所、プロジェクションマッピングの舞台へ


大谷石の採掘場跡を観光客向けに公開した大谷資料館がオープンしたのは1978年のことだ。
最初は単なる見学施設だったが、その後この空間のポテンシャルに気づいた人々が、様々なイベントに使い始めた。

1981年、
東京フルートアンサンブルアカデミーの演奏会が開催された。
以降、コンサート、猿楽、映画会、観劇、美術展、ダンスパフォーマンス、セミナーなどの文化事業や映画、テレビドラマ、テレビCM、プロモーションビデオの撮影が行われるようになった。

地下30メートルの石の空間は、独特の音響効果を持つ。
天井と壁が石で覆われているため、音が複雑に反射し、地上のホールとは全く異なる響きを生む。
ここで演奏された音楽は、他のどこでも再現できない。

近年はプロジェクションマッピングのイベントも開催され、石の壁面に光と映像が投影される。
70年かけて人間が掘り抜いた空間が、デジタルアートの舞台になっている。

落盤という代償


しかしこの巨大空間を作る過程は、決して平和なものではなかった。

1957年(昭和32年)10月7日、
宇都宮市田下東倉の採石場で落盤が発生し、作業員5人が死亡した。

1959年(昭和34年)7月6日、
宇都宮市大谷町の採石場で落盤が発生し、作業員9人が生き埋めとなるも6人が重軽傷を負いつつ救助されたが、3人が死亡した。

1962年(昭和37年)7月30日にも落盤が発生し、作業員2人と通行人の中学生1人が死亡した。

大谷石は柔らかく加工しやすい。しかしその柔らかさは、天井が崩れやすいことも意味する。
地下を掘り進めれば進めるほど、頭上の石が不安定になる。
採石場の労働者たちは常にその危険と隣り合わせで働いていた。

今日観光客が「地下神殿」と感動する空間は、何人もの命の代償の上に成り立っている。

地下から見上げる大谷石


大谷資料館の地下で空を見上げると、もちろん空は見えない。
見えるのは大谷石の天井だ。
灰緑色の石が頭上を覆い、遠くまで続いている。

ここに眠っていた石が、

江戸時代の蔵になり、
明治の神社になり、
帝国ホテルになり、
戦争中の地下工場になり、
戦後の米倉になり、
今はコンサートホールになっている。

そして採掘が終わって40年近く、石そのものが「場所」になっている。

石を掘り尽くした跡が、新しい空間になった。

大谷石は石として世界に旅立ち、その石を掘った場所自体が、別の価値を持ち始めた。
大谷石 割肌加工

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