ローマのコロッセオを訪れると、誰もが同じ疑問を抱く。
「なぜ、こんなにボロボロなのか?」
外壁の半分が消え、内部はむき出しのコンクリートが剥き出しになっている。
地震のせいだと思うかもしれない。だが真実はもっと皮肉だ。
コロッセオの石は、ローマ市民自身が1000年かけて持ち去ったのだ。
かつては「白く輝く巨人」だった
西暦80年に完成したコロッセオは、今の姿とはまったく異なっていた。外壁は白いトラバーチン石灰岩(石灰華)で覆われ、内部には大理石の座席が並び、金属製の装飾が光を反射して輝いていた。
収容人数は5万〜8万人。外壁の建設だけで10万立方メートル以上のトラバーチンが使われ、それを固定するために300トンもの鉄のクランプが打ち込まれていた。
それがなぜ、今のような骨格だけの廃墟になったのか。
教皇が「採石場」として許可を出した
西ローマ帝国が滅亡した5世紀以降、コロッセオは使われなくなった。
中世のローマ市民にとって、この巨大建築物はもはや「競技場」ではなく、「石の山」だった。
フランジパーニ家やアンニバルディ家といった有力貴族が城塞として占拠し、下層階は墓地や住居に転用された。
そして決定的だったのが、教会の関与だ。
中世を通じて、歴代のローマ教皇がコロッセオからの採石を公式に許可する「ライセンス」を発行した。
石が必要なとき、ローマ市民はコロッセオへ行けばよかったのだ。
コロッセオの内部。床が失われ地下構造が露出している。かつては大理石の床と木製の舞台が張られ、その下で剣闘士や猛獣が待機していた。



消えた石は「サン・ピエトロ大聖堂」になった
略奪の規模は想像を絶する。
1439年、コロッセオの石はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の修復に使われた。
1452年だけで、ジョヴァンニ・フォーリャという業者が2522台分もの資材をコロッセオから運び出している。
その石はパラッツォ・ヴェネツィア、パラッツォ・バルベリーニ、サン・マルコ聖堂の壁に、そしてサン・ピエトロ大聖堂の建設にも使われた。
つまり、今日ヴァティカンで観光客が見上げる荘厳なサン・ピエトロ大聖堂の一部は、コロッセオから持ち去られた石でできている。
略奪者は泥棒ではない。教皇の許可を得た「公式の解体業者」だった。
その建設にはコロッセオから運び出されたトラバーチンの石材が使われた。
コロッセオを食べてサン・ピエトロが育ったとも言える。
鉄のクランプを抜いた穴が残っている
石だけではない。コロッセオの石材を固定していた300トンの鉄のクランプも、すべて抜き取られた。
鉄は貴重な資源だったからだ。今もコロッセオの壁をよく見ると、無数の小さな穴が開いているのがわかる。あの穴はクランプを抜いた跡だ。観光ガイドが「弾痕では?」と冗談を言うこともあるが、実際には中世の採掘の痕跡である。
1749年、略奪がようやく止まった
コロッセオの採石に終止符を打ったのは、意外な理由からだった。
教皇ベネディクトゥス14世が1749年、コロッセオを「キリスト教殉教者の聖地」と宣言し、採石を禁じたのだ。
「ここでキリスト教徒が殉教した」という信仰が広まり、聖地を壊すことは冒涜とみなされるようになった。
皮肉なことに、その歴史的根拠は薄い。
コロッセオでキリスト教徒が処刑されたという直接の証拠はほとんどなく、16世紀以前にそのような主張をした記録もほぼ存在しない。
コロッセオを救ったのは、史実ではなく「物語」だった。
ローマ郊外ティヴォリのトラバーチン採石場。コロッセオも、サン・ピエトロ大聖堂も、この採石場から切り出された同じ石でできている。今も世界中に出荷されている。





廃墟の美しさの正体
コロッセオは壊されたのではない。ローマを作るために、使い尽くされたのだ。
廃墟の美しさは「剥ぎ取られた結果」だった
現在のコロッセオに残っているのは、主に古代ローマン・コンクリートの骨格だ。
トラバーチンや大理石は持ち去られ、鉄は抜かれ、地震でさらに崩れた。
それでも残った骨格が、私たちが「廃墟の美」と感じるあの姿を作り出している。
コロッセオは壊れたのではない。使われたのだ。
1000年にわたって、ローマという都市を建て直すための石として。
その意味では、コロッセオの石は今もローマの街のどこかに生きている。
ひとつの石に、ひとつの物語がある。
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