ルーヴル美術館を訪れた人は、その圧倒的なコレクションに息をのむ。
古代ギリシャ彫刻、ルネサンスの傑作、フランドル絵画。
なぜこれほどの作品がパリに集まったのか
答えはシンプルだ。ナポレオンが盗んだからだ。

ナポレオンは征服した国々から組織的に美術品を接収し、ルーヴルを「世界の首都の美術館」と位置づけた。
美術品専門の略奪部隊が存在した
1796年、ナポレオンはアルプスを越えてイタリアへ侵攻した。
軍事的勝利と並行して、彼が密かに進めていたのが美術品の組織的接収だ。
単なる戦利品の略奪ではない。
ナポレオンは「美術品委員会」と呼ばれる専門家チームを軍に同行させ、征服した各地で価値ある作品を選定・梱包・輸送させた。
その名目は「保護」だった。
「芸術作品は、それを正当に評価できる国民のもとに置かれるべきだ」というのが公式の理屈で、フランス革命が生んだ「理性と啓蒙の国」フランスこそが世界の美術品を管理する資格があると主張した。
しかし実態は、敗戦国に条約で「100点を選んでよこせ」と要求する、組織的な略奪だった。
バチカンからラオコーンが消えた日
バチカンから接収されたのは、ラオコーン群像、アポロン・ベルヴェデーレ、メディチのヴィーナスなど古代彫刻の最高傑作群だ。
ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂からは、古代ギリシャ時代からコンスタンティノープルを経て渡ってきた「四頭の青銅馬」が引き剥がされ、パリの凱旋門の上に飾られた。
スペイン、オランダ、ベルギー、プロイセン、エジプト、ナポレオンが進軍した先々で美術品が荷造りされ、パリへ向かう荷車の列が続いた。

ラオコーン群像

ナポレオンによってパリへ運ばれ「ナポレオン美術館」に展示されたが、1815年のワーテルロー敗戦後にバチカンへ返還された古代彫刻の代表例。

メディチのヴィーナス

四頭の青銅馬
「ナポレオン美術館」の誕生
1803年、ルーヴル美術館は「ナポレオン美術館」と改名された。
略奪品が次々と到着し、開館当初に537点だったコレクションは数千点規模に膨れ上がった。
ナポレオンはこれを「パリがローマに代わるヨーロッパの中心地だ」という政治的メッセージとして利用した。
1797年には征服した美術品を積んだ荷車の凱旋パレードが2日間にわたってパリの街を練り歩き、市民は熱狂した。
荷車には「ギリシャは堕ちた、ローマは敗北、彼らの運命は二度変わり、もう変わることはない」という煽動的な文句が掲げられていた。
ワーテルローの敗北と「返還交渉」の始まり
1815年6月、ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北すると、勝利した連合国は即座に美術品の返還を要求した。
プロイセンは交渉を待たず、兵士を直接ルーヴルへ送り込んでプロイセンの作品を力ずくで回収した。
オランダ、ベルギー、オーストリアも相次いで使節を派遣した。
だがルーヴルの館長ドミニク・ヴィヴァン・ドゥノンは激しく抵抗した。
「返還は国王ルイ18世の許可なくできない」と繰り返し、要求を門前払いにした。
あるいは美術品を地方の美術館に分散させて「所在不明」にした。交渉は混乱を極めた。
バチカンを代表して返還交渉に臨んだのは、彫刻家アントニオ・カノーヴァだ。
外交経験のない芸術家が単身パリに乗り込み、ウィーン会議でイギリス・プロイセンの外交官たちに書簡を送り、ルイ18世とも直接会見して返還への協力を求めた。
1815年10月、カノーヴァは「使命は概ね成功した」と報告した。
ラオコーン群像、アポロン・ベルヴェデーレ、メディチのヴィーナスはローマへ帰還した。
「大きすぎて返せない」ヴェロネーゼの奇妙な運命
しかしすべてが返ったわけではない。
最も有名な「返還拒否」の例が、パオロ・ヴェロネーゼの《カナの婚礼》だ。
縦6.7メートル、横9.9メートル。
1563年にヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂の壁一面を飾るために制作されたこの巨大絵画は、1797年にナポレオンの部隊が壁から剥ぎ取り、丸めてパリへ運んだ。
返還交渉では、フランス側が「大きすぎて輸送が不可能」という理由を持ち出した。
そしてルーヴルの館長ドゥノンが裏で手を回し、オーストリア皇帝(ヴェネツィアの代理)に「代わりにフランスの画家シャルル・ル・ブランの作品と交換しよう」と持ちかけた。
比べ物にならない価値の差があるにもかかわらず、この交換は1815年9月に成立した。
カノーヴァは「自国の名誉と利益を裏切ることには決して賛成しない」と憤慨したが、時すでに遅かった。

縦6.7m×横9.9mのルーヴル最大の絵画。
ヴェネツィアの修道院の壁から剥ぎ取られ、「大きすぎて返せない」という理由でいまもパリに留まる。
結局、何が返って何が残ったか
ナポレオンがイタリアから接収した絵画は506点。
そのうちワーテルロー後に返還されたのは258点ちょうど半分だ。
残りの248点はさまざまな理由でフランスに留まった。
各国が個別に返還申請を出さなければならない煩雑な手続き、フランス地方美術館への分散、「すでに条約で合意した」という法的解釈の違い、そうした障壁が積み重なって、返還は不完全なまま終わった。
全ヨーロッパで見れば、1815年の返還は5,233点に上った。
これは史上初の大規模な文化財返還であり、歴史家ベネディクト・サヴォワはこれを「近代における最初の重要な返還行為」と評価する。
この出来事が後のプラド美術館(1819年開館)やロンドン国立美術館の設立を促した。
逆説的にも、略奪と返還の経験がヨーロッパ各国に「国民のための美術館」という概念を根付かせた。
今もルーヴルに残る「未返還品」
返還されなかった作品はヴェロネーゼだけではない。
チマブーエの絵画、マンテーニャの祭壇画の断片、ティツィアーノとヴェロネーゼの別作品、さらに複数のイタリア、スペイン作品が現在もルーヴルに収蔵されている。
ペルジーノの《デチェムウィリの祭壇画》はペルージャの礼拝堂に戻ったのが2019年のことだ。略奪から223年後のことだった。
1994年、イタリア文化省の高官が《カナの婚礼》の返還交渉を試みた。
フランス側は拒否した。
絵は今もルーヴルの「ドゥノン翼」に掛かっている。
かつて《モナ・リザ》と向かい合わせに展示され、ふたつの作品が同じ壁を共有していた時代もあった。
略奪者が用意した壁で、略奪品同士が静かに向き合っていた。
ルーヴルのコレクションの豊かさは、ナポレオンという特異な歴史の産物だ。
返還交渉の顛末は、「文化財は誰のものか」
その問いは、200年前から今もなお答えが出ていない。
ひとつの作品は、美だけでなく、歴史ごと運ばれてきた。
そしてその多くは、
大理石(実際の石材を見る)
という「動かせる石」だった。




















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