ノートルダム大聖堂、ルーヴル美術館、凱旋門、オスマン男爵が19世紀に整備したあの均整のとれたブールヴァール——パリを象徴するほぼすべての建築物は、同じ石でできている。
ルテシアン石灰岩、別名「パリ・ストーン」。クリーム色がかった温かみのある石だ。
そしてこの石は、パリの真下から掘り出された。

パリは自分の足元を食べた
ルテシアン石灰岩は、約4500万年前にパリ一帯を覆っていた熱帯の浅い海の底に堆積した石灰質の岩盤だ。
「ルテシアン」という名はパリのローマ時代の名称「ルテティア」に由来する。
地質学の時代区分でもこの石の名が使われるほど、パリとこの石の結びつきは深い。
ローマ時代から採掘が始まり、中世には地下に横穴を掘り進む坑道採掘へと移行した。
ノートルダム大聖堂の建設が始まった12世紀以降、石の需要は爆発的に増え、採掘業者たちはパリの南側の地下を蜂の巣のように掘り続けた。
問題は、誰も記録をつけなかったことだ。
採掘が終われば坑道は放棄され、地図にも残らなかった。
パリが拡大するにつれ、かつて郊外だった採掘跡の上に街が広がっていった。
18世紀のパリ市民は、自分たちが何百年分もの空洞の上に暮らしていることを知らなかった。

1774年、「地獄通り」が崩落した
1774年4月17日、パリ左岸の「リュ・ダンフェル(地獄通り)」で突然、地面が陥没した。
家屋ごと地下に飲み込まれ、人々が約25メートル下の坑道に落下した。
その後も崩落が相次ぎ、パリ市民はパニックに陥った。
事態を重く見たルイ16世は1777年、「採石場総合監督局(IGC)」を設立し、初代長官にシャルル=アクセル・ギヨモを任命した。
ギヨモの使命は、パリの地下を全て測量し、崩落の危険がある坑道を補強することだった。
彼が作った地図は精密な芸術作品のようでもあり、今も一部が残っている
空洞に何を入れるか、600万人の骸骨
地下の補強工事が進む中、パリは別の深刻な問題を抱えていた。
墓地が満杯だったのだ。
パリ最大の墓地「サン=タンノサン(聖なる無垢者たち)の墓地」は、500年以上にわたって使われ続け、18世紀末には2メートルの高さに遺骨が積み上がっていた。
1780年の春、腐敗したガスが隣接する民家の地下室の壁を突き破り、住民がコレラに似た症状を訴えた。
墓地は閉鎖され、遺骨の移転が急務となった。
解決策は、ほとんど偶然に生まれた。補強工事中の地下坑道が、そのまま納骨堂として使えるではないか。
1785年12月から、作業員たちは夜ごと松明を持ってパリ中の墓地を掘り起こし、遺骨を荷車に積んで坑道入口まで運んだ。
聖職者が行列に同行し、鐘を鳴らして死者を弔いながら夜の街を進んだ。
こうして1814年までの間に、600万人分以上の遺骨が地下に移された。
これがカタコンブの起源だ。



観光客が歩ける区間は約1.7キロメートルだが、地下坑道の総延長は約300キロメートルにおよぶ。
6百万人以上の遺骨が壁面に整然と積み上げられている。
石を掘り出した後の空洞が、死者の家になった。
観光地として年間55万人が訪れるカタコンブは、実は建築の副産物だ。
石を取り出した穴に、次は死者を押し込んだ。
パリの美しさの真下に、文字通り骨が埋まっている。
地下が尽きたとき、採掘場は北へ移った
20世紀に入ると、パリ市内の地下採掘は事実上終わりを迎えた。
安全上の問題もあったが、もはや掘れる石灰岩の良質な層が残っていなかったのだ。
採掘の中心は、パリ北方約40キロのオワーズ川沿いに移った。
サン=マキシマン周辺の地層には、パリ地下とまったく同じルテシアン石灰岩が露天掘りで採取できる厚い層が残っていた。
色も質感もパリを建てた石と変わらない。
クリーム色がかったグレー、化石の微細な紋様、温かみのある表面「パリらしさ」を作り出す石が、場所を変えて今も掘り出されている。
その採石場を動かしてきた会社、ロカマット社
パリの地下採掘は終わった。
しかし、パリを作った石そのものは消えなかった。
その石を現代まで掘り続けてきた会社がある。ロカマット社(ROCAMAT)だ。
創業は1853年。当初は「シヴェ・フィス・エ・シー」という名の小さな採石会社だったが、合併と買収を繰り返しながら規模を拡大し、1971年に現在の「ROCAMAT」という社名になった。
ルーヴル美術館、オルセー美術館、パリ・オペラ座、ニューヨークのメトロポリタン美術館、東京の恵比寿ガーデンプレイス、世界の名建築にロカマット社の石が使われてきた。
フランスの文化財修復において、ロカマット社の石は「指定石材」に近い存在だった。
ノートルダム大聖堂の修復工事にも、同社のサン=マクシマン石灰岩が使われている。
パリを最初に建てた石と、今パリを修復する石が、同じ地層から来ている。


オワーズ県サン=マクシマン周辺の採石場。
ルテシアン石灰岩の良質な層が地表近くに残っており、露天掘りで採取される。
パリの地下採掘が終わった後も、同じ石がここから掘り出され続けている。
170年の会社が、一度死んだ
だがロカマット社の歴史は、栄光だけではない。
石材業界はどこも厳しい。
採掘コストは上がり続け、中国やインドからの安価な加工石材が市場を席巻し、後継者は育たない。
山を持つだけで固定費がかかり、価格は叩かれ続ける。
イタリアのカッラーラ周辺でも、フランスでも、石材会社の多くが同じ構造で経営が続かない。
ロカマット社も例外ではなかった。
2017年、170年近い歴史を持つこの会社は経営破綻し、裁判所管理下の再建手続きに入った。
パリという都市を建て、ルーヴルを修復し、世界中の名建築に石を供給してきた会社が、倒産したのだ。
再建計画がまとまったのは2018年。
そして2023年、ロカマット社はカナダの石材グループ「ポリコール社(Polycor Inc.)」に買収された。
今、パリを建てた石の番人は、カナダ企業の傘下にある。



石は変わらない、会社が変わるだけだ
考えてみれば、これはパリの石の歴史そのものだ。
採掘する場所が変わり、掘る会社が変わり、石の用途が変わった。
地下から地上へ、パリ市内からオワーズへ、フランス資本からカナダ資本へ。
それでも石灰岩は同じ地層から来て、同じクリーム色でパリの壁に貼られ続けている。
カタコンブの地下を歩くとき、観光客は6百万人の遺骨を見る。
だが壁そのものに目を向ける人は少ない。
その石灰岩の壁こそが、ノートルダムを建て、ルーヴルを建て、パリという都市の「顔」を作ったのと同じ石だ。
パリは、自分の足元を掘って建てられた都市だった。
その穴は、やがて死者の街になった。
そして数百年後、同じ石が再びパリを修復している。
都市は変わる。
人も会社も消える。
だが石だけは、ずっと同じ場所に残っている。
フランス産石灰岩について
パリの建築文化を支えてきたルテシアン石灰岩は、 現在もフランス各地で採掘され、 建築石材として使われ続けている。
日本では「コンブランシャン」などの フランス産石灰岩が広く知られている。




















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