大理石もある。
それなのに、この国は建物の壁を石で覆わなかった。
タイルで覆った。
なぜ石の国が、タイルを選んだのか。
その答えは、1755年の大地震にある。
だがそこに至るまでに、700年分の旅がある。
「アズレージョ」はポルトガル語ではない
まず名前の話から始めよう。
多くの人がアズレージョ(azulejo)」はポルトガル語の「アズール(azul=青)」に由来すると思っている。
だが違う。
アズレージョはアラビア語の「アル=ズライジュ(al-zulayj)、
意味は「小さな磨かれた石」だ。
この伝統は、イスラム教徒がイベリア半島を支配していた時代に、ムーア人がもたらしたものだ。
711年、ムーア人がイベリア半島に侵入し、現在のスペインとポルトガルの大部分を支配した。
彼らは幾何学模様を精緻に組み合わせたタイル装飾の文化を持ち込んだ。
イスラム法が人物描写を禁じていたため、模様は抽象的な幾何学図形と植物文様の世界に向かっていった。
その技術と美意識が、やがてポルトガルの文化に深く根を下ろすことになる。

国王が一目惚れした
レコンキスタ(国土回復運動)でムーア人が追い出された後も、タイルの文化は消えなかった。
製作の中心はスペインのセビリャに移り、今度はイタリア人職人が加わってマジョリカ技法(錫釉薬を用いた彩色技術)が持ち込まれた。
ポルトガルにタイルを本格的に導入したのは、マヌエル1世(在位1495〜1521年)だ。
カスティーリャを訪問した際、アンダルシアで使われているタイルの構成に深く感銘を受けた王は、シントラの宮殿の装飾のためにヒスパノ=ムーア様式のタイルを1万146枚発注した。
1508年、その荷がリスボンの港に届いた。
これがポルトガルにおけるアズレージョ本格導入の始まりだ。
その後、16世紀を通じてポルトガルのタイル芸術は独自の進化を遂げた。
イスラム法の制約がなくなったポルトガルの職人たちは、人物、動物、宗教的場面、歴史的事件を自由にタイルに描き始めた。
海洋帝国ポルトガルの船、航海者の物語、異国の植物
タイルは「絵で語る年代記」となっていった。
17世紀の黄金期「青と白」の誕生
17世紀から18世紀初頭にかけて、アズレージョは黄金期を迎えた。
オランダのデルフト焼きの影響を受け、コバルトブルーと白の2色だけで描く様式が流行した。
大きな壁面を一枚の絵として描く「アズレージョ・パネル」が教会、修道院、貴族の邸宅を飾った。
この時代の傑作が、リスボンの国立アズレージョ博物館に保存されている。
1700年当時のリスボンの全景を描いた巨大なパネルだ。
後に大地震で失われた街の姿が、タイルの上だけに残っている。


1755年の大地震で失われた街の姿が、タイルの上だけに残っている。
縦横数メートルにわたる青と白の世界に、18世紀のリスボンが細部まで描き込まれている。
1755年11月1日、すべてが崩れ落ちた
1755年11月1日、万聖節の朝。
リスボンの市民が教会のミサに集まっていたとき、マグニチュード8.5から9.0と推定される大地震が街を襲った。
揺れは数分続き、その後に大津波、そして大火災が追い打ちをかけた。
リスボンの市街地の85%が壊滅し、死者は数万人に達した。
当時の首相セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・エ・メロ、後のポンバル侯爵は即座に行動した。
「死者を埋葬し、生存者を癒せ」それだけを言って、リスボンの再建に取り掛かった。
ポンバル侯爵の再建計画は、ヨーロッパ都市計画史に残る仕事だった。
格子状の街路、統一された建築様式、そして画期的な耐震構造「ガイオラ・ポンバリーナ(ポンバルの鳥籠)」木造の骨組みを建物の内部に組み込み、地震の揺れを吸収させる工法だ。
模型を作り、兵士に周りを行進させて揺れを再現する実験まで行った。
そしてタイルだ。
ポンバル侯爵は再建にあたり、大きな芸術的作品を置き換えるため、コストを抑えて迅速に設置できる幾何学模様の小さなタイルを採用した。
石は重い。
落ちれば人が死ぬ。
タイルは軽い。
剥がれても被害が少なく、割れた部分だけ交換できる。
合理主義の時代、ポンバル侯爵は石よりタイルを選んだ。
こうして地震を機に、タイルは建物の内部から外部へと移行し、公共の建物、宗教的建造物、宮殿の外壁を覆うようになった。
これが「アズレージョ・ポンバリーノ」と呼ばれる様式だ。

建物の外壁をアズレージョで覆う習慣は、1755年の大地震後のポンバル侯爵による都市再建で本格的に広まった。
石より軽く、交換しやすいタイルは、地震国ポルトガルの現実的な答えだった。


タイルが街のあらゆる場所を覆った
19世紀、産業革命の波がポルトガルにも到達した。
タイルの大量生産が可能になり、価格が下がった。
かつては貴族や教会だけのものだったアズレージョが、一般の住宅の外壁にも広がっていった。
鉄道の時代になると、駅舎がアズレージョの新しい舞台になった。
ポルトガルの鉄道駅には、各地の歴史や風景を描いた巨大なタイルパネルが設置された。
旅人は駅のホームで、ポルトガルの歴史絵巻を眺めながら列車を待った。
リスボンの地下鉄の各駅も、著名な芸術家が手がけたアズレージョで装飾されている。
20世紀に入ると、ポルトガルは世界最大のタイル生産国となった。
学校、病院、工場、市場、あらゆる公共空間がタイルで覆われた。
ポルトガルの人々はアズレージョに囲まれて生まれ、アズレージョに囲まれて死んでいった。
タイルを盗む者たち
観光ブームが皮肉な問題を生んだ。
アズレージョの美しさに魅了された観光客が増えるにつれ、歴史的なタイルの需要が高まった。
そして泥棒が現れた。
夜中に建物の外壁から組織的にタイルを剥がし、闇市場で売りさばく。
当局の推計では、1980年から2000年の間にリスボンの芸術的タイルの25%が失われた。
年間約1万枚の盗難がピークに達した2001年、2002年、2006年頃、被害は深刻だった。
教会、病院、駅から丸ごとパネルが消えた。
廃墟になった建物から一夜にして1000枚以上が持ち去られたこともある。
2007年、警察はSOSアズレージョというプロジェクトを立ち上げた。
盗難タイルの写真データベースをウェブで公開し、蚤の市で売られているタイルが盗品かどうか誰でも確認できるようにした。
この取り組みにより、タイルの盗難件数はプロジェクト開始以来80%減少した。
ポルトは「タイルの銀行(バンコ・デ・マテリアイス)」まで設立した。
解体される建物から救出したアズレージョを収集・保管し、修復工事を行う開発業者に「貸し出す」という仕組みだ。
2010年以降、1万4000枚以上のタイルを提供し、275棟の建物の修復を支援した。
石ではなく、タイルだったから残った
大理石の物語を書き続けてきた立場から言えば、アズレージョの歴史は「石に対して選ばれた素材の物語」だ。
ポルトガルに石がなかったわけではない。
石を使う技術がなかったわけでもない。
地震という現実が、石よりタイルを合理的な選択にした。
軽い、剥がれても危険が少ない、割れた部分だけ交換できる。
石の永遠性より、タイルの更新可能性を選んだ国だ。
そしてタイルであったがゆえに、700年の歴史が「生きた壁」として街に残った。
石の建物は崩れれば終わりだが、タイルは1枚ずつ剥がれ、1枚ずつ貼り直される。
リスボンの壁には、イスラムの幾何学模様の時代から、大航海時代の物語、大地震後の再建、そして現代の地下鉄アートまで、700年分の時間が重なっている。
アズレージョは「磨かれた小石」という意味だ。
石ではなく、石のように磨かれたもの。
その名前のとおり、石と同じ場所を目指しながら、石とは違う道を歩んだ素材の歴史だ。




















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