【大理石の物語 103】トラバーチン特集 第2話 ティヴォリと、名前の生まれた場所

東京のホテルのロビーで、
ロサンゼルスの浴室で、
ドバイの高層ビルの壁で、
世界中で使われているこの石を、人は「トラバーチン」と呼ぶ。
ごくありふれた石材の名だ。

けれども、その名を口にする人のほとんどは、自分がいま、ローマ近郊の小さな町の名を発音していることに気づいていない。

トラバーチンという言葉は、地名である。イタリアの、ティヴォリという町の名なのだ。

ティブルという古い名


ローマの東、二十数キロ。アニエーネ川が深い谷を刻む崖の上に、ティヴォリの町はある。
いまはティヴォリと呼ばれるこの町を、古代の人々はティブル(Tibur)と呼んだ。
ローマがまだ地中海の覇者になる前から、
ここには町があり、
神殿があり、
そして泉があった。

崖のふちには、いまも円形の小さな神殿が残っている。
渓谷を見下ろすように建つこの神殿は、シビュラ、古代世界で未来を告げた巫女にゆかりの場所として語り継がれてきた。
ティブルのシビュラは、皇帝たちさえその託宣に耳を傾けたという。のちに皇帝ハドリアヌスがこの地に壮大な別荘を築いたのも、ここが古くから聖なる水と神託の里だったことと無縁ではない。

町の名も、ローマよりずっと古い。おそらくは、この地に住んだサビニ人の言葉にまで遡る、由来の定かでない響きである。
ウェスタの神殿
ティブルのシビュラ

名前もまた、堆積する


古代ローマ人は、この地で採れる石を「ラピス・ティブルティヌス(lapis tiburtinus)」「ティブルの石」と呼んだ。
石の名は、土地の名から生まれたのだ。

ところが、名前もまた石のように、長い時間のなかで少しずつ姿を変えていく。ティブルティヌスは、口から口へと転がされるうちに角が取れ、ティブルティノとなり、やがてトラヴェルティノ(travertino)へと変わっていった。
頭の「トラ(tra-)」は、まるで「越えて」を意味するかのように紛れ込んだ、音の錯覚である。それがフランス語のトラヴェルタン、英語のトラバーチンへと渡り、十八世紀ごろには広く定着した。

こうして、一つの土地の名は、石の名になった。
ついには世界中のよく似た石をひとまとめに指す普通名詞になった。トルコの石も、イランの石も、メキシコの石も、いまでは等しく「トラバーチン」と呼ばれる。

つまりは「ティブルの石」と。その多くは、ティヴォリの土を一度も踏んだことがないというのに。名前は、生まれた場所から遠く遠く運ばれて、それでも出自の響きをかすかに残している。
石そのものと、まったく同じように。

名が生まれた、その現場


では、その名を実際に生んだ現場はどこか。崖の上の町を下りて、ティヴォリとローマのあいだに広がる平野へ出ると、そこに答えがある。

アックア・アルブレ「白い水」と呼ばれる、硫黄を含んだ温泉が湧く一帯だ。
乳白色に濁ったその湯は、地下の火山、かたわらに横たわる休火山、アルバーノ丘陵から熱と二酸化炭素を受け取って、地表へと噴き上がってくる。

第1話で述べたことを、思い出してほしい。地表に出た温泉水は圧を解かれて二酸化炭素を吐き出し、そのぶんだけ炭酸カルシウムを析出させて石になる。ティヴォリの平野で起きたのは、まさにそれだった。
ただし、その規模が桁違いだった。白い水が息を吐きつづけた結果、この地には広さ二十平方キロメートル、厚さ六十メートルにも及ぶトラバーチンの一枚岩が横たわることになった。断層に沿って、何万年もの時間をかけて、湯が吐き出しつづけた石の高原である。

「温泉が石を作る」という、あの抽象的な命題に、ここでようやく具体的な住所が与えられる。それがティヴォリという場所なのだ。

石と町は、離れられない


かくして、ひとつの奇妙な循環が完成する。
町が石に名を与え、
その石が切り出され、
アニエーネ川からティベレ川へと運ばれて、
やがて町の神殿を、
そしてローマそのものを築いていく。
名を貸した石が、名の主の栄光を石で刻み返すのだ。

石の名を口にすることは、この町を呼ぶことであり、
この町に立つことは、この石の上に立つことでもある。
ティヴォリにおいて、石材と土地は、もはや切り離すことができない。

名前とは、トラバーチンによく似ている。源から遠く運ばれ、時間に磨かれて姿を変え、それでも生まれた場所を指し示しつづける、ゆっくりと堆積した何かだ。

私たちは石の名を呼んでいるつもりで、実は一つの土地の名を呼んでいる。 「トラバーチン」という一語は、いまもローマの東、白い湯が石を吐きつづけるティヴォリの平野を静かに指し示しているのである。

次回は、その石が運ばれていった先の話。ローマは、なぜトラバーチンでできているのか。

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