【大理石の物語 109】トラバーチン特集 第8話 トラバーチンと、トルコの逆襲

トラバーチンといえば、長いあいだ世界の石材業界では、イタリアを意味していた。
ローマを支えたティヴォリの石。
コロッセオを築き、サン・ピエトロ広場の列柱廊となり、ベルニーニが伝書鳩で採石場へ注文を送った石。(第105話)

「トラバーチン」という名そのものがティヴォリに由来する以上、その中心がイタリアであることを疑う人はいなかった。
二千年にわたる歴史そのものが、この石のブランドだったのである。

世界市場が動いた


ところが1990年代、その常識が静かに崩れ始める。
舞台はトルコ西部、デニズリ盆地。
パムッカレを生んだ温泉地帯の周囲には、ティヴォリにも劣らない巨大なトラバーチン鉱床が眠っていた。
古代から石は切り出されていたが、本格的に世界市場へ向けた採掘が始まったのは比較的新しい。
新しい採石場。
新しい加工設備。
そして輸出産業としての石材。
トルコは、歴史ではなく、生産力で世界へ挑み始めた。
パムッカレ

歴史では勝てない


もちろん、歴史だけなら勝負にならない。
ティヴォリにはローマ帝国がある。
コロッセオがある。
ベルニーニがいる。
二千年という時間は、誰にも真似できない。
だからトルコは、別の土俵で勝負した。

品質だった。
価格だった。
そして供給力だった。
ヨーロッパやアメリカの建設ラッシュに合わせ、大型設備への投資を進め、品質を安定させ、世界中へ大量供給できる体制を整えていった。

石は美しいだけでは売れない。

必要な数量を、
必要な品質で、
必要な時期に届けられること。
現代の建築市場では、それもまた石の価値なのである。
コロッセオ
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

デニズリという石の王国


現在、トルコ産トラバーチンの中心となっているのがデニズリ県である。
コジャバシュ、
イェニジェケント、
ギョレムズリ、
カラテケ、
ギュルレク。

周囲には数多くの採石場が点在し、世界中へ向けてトラバーチンが送り出されている。
同じデニズリ盆地には、第106話で訪ねたパムッカレがある。

温泉は今も石を作り続け、 そのすぐ近くでは、人がその石を切り出している。
地球が石を育てる場所と、 人が石を世界へ送り出す場所。
その二つが、ほとんど隣り合って存在しているのである。
トルコトラバーチン(穴埋めタイプ) 本磨き

イタリアにはない武器


ティヴォリ産のトラバーチンと比べると、トルコ産は色の幅が驚くほど広い。
暖かいベージュのクラシコ。
落ち着いたシルバー。
深いブラウンのウォルナット。
黄金色のゴールデン。

住宅からホテル、大型商業施設まで、建築家は空間に合わせて色を選べるようになった。

さらにベインカット、クロスカット、穴埋め、穴あきなど、仕上げの選択肢も豊富だった。
イタリアが「歴史」を売るなら、
トルコは「選べるトラバーチン」を売ったのである。
シルバートラバーチン
トラバーチン ブラウン
クロスカット
ベインカット
ライトトラバーチン クロスカット
シルバーグレートラバーチン クロスカット
イエロートラバーチン スプリットフェイス
ピカソアイボリートラバーチン
ピカソアイボリートラバーチン

「クラシコ」は産地ではなく、色になった


石材業界では、「トラバーチン・クラシコ」という名前を耳にすることが多い。
もともとはティヴォリ産の伝統的なトラバーチンを指した呼び名だった。
ところが現在、市場では必ずしもそうではない。
暖かみのあるベージュ色であれば、産地がトルコであっても「クラシコ」と呼ばれることがある。

これは、このシリーズで何度も見てきた現象だ。

ロッソ・マニャボスキが産地を離れて色の名前になり、
インペリアル・グリーンが複数の国で使われ、
バサルトという名が地質とは別に市場で広がったように。
石の名前は、生まれた場所から始まる。
けれど人気が出ると、その名前は産地を離れ、やがて色や模様、雰囲気そのものを表す言葉へ変わっていく。

トラバーチン・クラシコもまた、その長い旅の途中にある名前なのである。

穴は、欠陥ではない


トラバーチンには、独特の穴がある。
これは傷でも欠けでもない。
温泉から湧き出した二酸化炭素の泡が抜けた跡であり、この石が生まれた証拠でもある。
だから、この穴をどう扱うかは、石の価値ではなく、用途の違いになる。

ホテルや商業施設の床では、穴を樹脂やセメントで埋めた「穴埋めタイプ」が多く使われる。
汚れが入りにくく、掃除もしやすいからだ。
一方、壁や暖炉、店舗のアクセントでは、穴をそのまま残した「穴あきタイプ」が好まれる。

温泉が作った石らしい、自然な表情をそのまま楽しめるからである。
どちらが優れているという話ではない。
石の履歴を見せるか、
暮らしやすさを優先するか。
その違いだけなのである。
トルコトラバーチン(穴あきタイプ) 水磨き

イタリアとトルコ、同じ石の、異なる物語


ティヴォリのトラバーチンとデニズリのトラバーチンは、生成メカニズムが同じだ。温泉の熱水が炭酸カルシウムを析出させ、長い時間をかけて石を作る。しかし二つの石が持つ「物語」は全く異なる。

ティヴォリのトラバーチンはコロッセオとサン・ピエトロ広場という2000年の歴史を背負っている。ベルニーニの伝書鳩が飛んだ採石場から来る石は、「歴史の重み」という付加価値を持つ。

デニズリのトラバーチンはパムッカレという世界遺産の絶景と、ヒエラポリスという古代都市の歴史を持ちながら、「価格競争力」と「バリエーションの豊富さ」で世界市場を席巻した。

石材業界では今日、「トラバーチン・クラシコ」といえば産地を問わず「暖かみのあるベージュのトラバーチン」を指すことが多い。ロッソ・マニャボスキ(第28話)やインペリアル・グリーン(第54話)と同じように、産地より見た目が名前を決める。そのパターンがトラバーチンにも起きている。

ローマの栄光を背負ったイタリアの石と、価格と品質でそれに挑んだトルコの石。
世界中の建物の床と壁で、今日も両者は静かに競い合っている。
トルコトラバーチン(穴埋めタイプ) 本磨き
トラバーチンロマーノ(穴埋めタイプ) 本磨き

二つの国、二つの物語


ティヴォリのトラバーチンは、ローマ帝国の歴史を背負っている。
コロッセオ。
パンテオン。
サン・ピエトロ広場。
ベルニーニ。
二千年という時間が、この石の価値を育ててきた。

一方、デニズリのトラバーチンは違う。
パムッカレという世界遺産を抱えながらも、世界市場で勝負したのは歴史ではなく、生産力だった。
品質。
価格。
色の豊富さ。
そして安定供給。
同じ温泉が作った石でも、その歩んだ道はまったく違う。
片方は歴史を語り、
もう片方は世界市場を変えた。
その違いが、今日のトラバーチンという石を、より豊かなものにしている。

温泉が世界を変えた


トラバーチン特集は、「温泉が石を作る」という話から始まった。

ティヴォリでは、その石がローマを築いた。
ベルニーニは採石場へ伝書鳩を飛ばした。
パムッカレでは、今も新しい石が静かに育ち続けている。
ロサンゼルスでは、ゲッティセンターの壁になり、
パリでは、雨に洗われながら白さを保ち続けている。

そして現代では、トルコの巨大な採石場から世界中へ送り出され、新しい都市の床や壁になっている。

温泉が生んだ一つの石は、
古代ローマから二十一世紀まで、
止まることなく旅を続けてきた。

石は動かない。
そう思われている。
けれど、本当に旅を続けているのは、人ではなく石なのかもしれない。

トラバーチンとは、

温泉が何十万年もかけて育て、
文明が二千年以上かけて磨き続けてきた、
「時間そのもの」の石なのである。

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